「名探偵コナン ゼロの執行人」・・・真実、正義、そして愛の物語

4月13日に公開されたシリーズ第22弾、劇場版「名探偵コナン ゼロの執行人」。

封切から2ヶ月を越えた今も上映は続いており、前人未到の6年連続興行収入最高記録更新に加え、累計80億円を突破した。

 

そんな大ヒットの原動力になったのはトリプルフェイスを持つ大人気キャラクター・安室透の存在、そして「正義を貫く者」と称されたその安室と「真実を暴く者」である主人公・江戸川コナンとの対立を通して描く二転三転のストーリーだ。

 

そんな「真実」と「正義」がこの映画のテーマでもあるのだが、3回映画館で執行(鑑賞の意)し、主題歌をダウンロードし、各所の感想・考察に目を通した自分がたどり着いた結論は、この映画は「愛」の物語でもあるという事だ。

 

(注)以下、映画「ゼロの執行人」のネタバレを含みます。

 

今回のキーパーソンとして羽場二三一というキャラクターが登場する。

 

司法修習生だった彼は目指していた裁判官になれず、今回の映画で逮捕された小五郎の担当弁護士である橘境子の事務員として働いていたが、映画本編の1年前、ゲーム会社に侵入していた罪で逮捕、公安警察の取調べを受けた後、自殺した。

 

そして彼の存在がサミット会場爆破を含む、今回の大規模テロ事件が起きた原因だった。そもそも羽場がゲーム会社に潜入したのは、公安検察から潜入捜査を指示されていたためだったのだ。そしてそれを指示した真犯人の日下部検事は協力者だった彼を取調べで自殺に追い込んだ公安警察への怒りから復讐を決意した。

 

公安警察の力が強い限り、公安検事は自らの正義を全うできない!」

犯行が暴かれた際の日下部の台詞である。

 

しかし、日下部の動機は本当に「正義の遂行」だったのだろうか?

 

最初に起こしたサミット会場爆破の容疑者として小五郎が逮捕されたら、「検事として無実の人間を巻き込むわけにいかない」という理由で、小五郎の拘留中に当初の計画に無かったIOTテロを起こしてまで、彼の無実を証明しようとした。

 

とはいえ、本当に正義を遂行する事が目的なら、本当に検事としての良心や使命感が働いたなら、ここでもう出頭すべきだった。はっきり言ってサミット会場爆破の時点で、公安警察の威信は十分失墜している。目的は十分に果たした。そしてそこに想定外の被害者が出た時点で己の失敗を認めるべきだった。

 

そもそも「正義のためには多少の犠牲はやむを得ない!」と後で主張した割に、この小五郎逮捕も犠牲の一部と割り切るような発想が出来なかった。「無関係の人間を逮捕する公安警察め、許さん!」と自分の事を棚に上げて計画を進める図々しさも持ち合わせていなかった。自分に落ち度があることが無意識の内でもわかっていたはずなのだ。

 

おまけに「正義のためには多少の犠牲はやむを得ない!」という主張自体、コナンに「そんなの正義じゃない!」と単純に反論されただけで怯んでしまう。犯行そのものの是非以前に、日下部の中に「自分の行いは『正義』である」という確固たる信念があるようにはとても観えなかった。

 

もし仮に、「本気で『正義のためには多少の犠牲はやむを得ない!』というならば、羽場が公安検察の協力者である事を黙り続け、一人で罪を背負った事も、『この国を守るという彼なりの正義における多少の犠牲の一つ』なのだから受け入れるべし」などと言われたら彼はどう反応するだろうか。

 

厳しい意見だが、劇中でも「前例が無い」と言われた公安検察の協力者という立場に羽場を誘う以上、いざとなれば羽場を切り捨てる事も最初から想定しておかなければならなかった。その決断や覚悟が出来ないのならば、初めから協力者など求めるべきではなかったのだ。

 

「自ら行った違法捜査は自ら片をつける。あなたにはその資格が無い。」

安室が日下部に言い放った言葉だが、実に的を得ていたと言えよう。

 

結局全ては建前で、日下部は羽場を失った怒りをぶつけていただけに過ぎなかった。裏を返せば彼の「正義」はどこまでも不安定で中途半端だったが、羽場への思いだけは一貫してぶれなかったという事である。それこそ日下部本人が言った「肉親よりも強く、一心同体で結ばれている協力者の絆」、つまりは「愛」だったのだろう。

 

もう一人、愛ゆえに今回の事件に介入した者がいる。小五郎の担当弁護士・橘境子がそれだ。

 

密かに公安警察の協力者としての活動もしていた彼女は、かつては羽場の監視を指示され、そして新たに小五郎の弁護を指示された。

 

が、監視対象者である羽場と惹かれ合ってしまい、その結果羽場の死をきっかけに公安警察への恨みを抱き、命令に反して小五郎を起訴させようと画策した。日下部が「協力者の絆は肉親よりも強く一心同体」と言った矢先にこれである。中々皮肉の利いた話ではあるものの、羽場のために暗躍したという意味では二人は同じ存在だ。

 

一方で、その思いの強さには両者の間で大きく差があったようだ。

実は公安警察の計らいで羽場は本当は生きており、日下部は彼の説得を受けて、全ての情報を吐き出し、それでも事態が好転しないと見るや、自らの危険も省みず羽場の救出に向かい、最後は大人しく連行されていった。

逆に橘は羽場の生存に驚くところまでは同じでも、本人の所へ赴いて直接会う事を拒み、羽場とも公安警察とも袂を分かってしまった。

 

「羽場の無念を晴らす」という「目的」のため、「公安警察へ復讐する」という「手段」を取ったところまで日下部と橘は確かに同じだった。しかし最後の最後で橘は公安警察への復讐(より厳密に言えばとにかく公安警察に抗う事)自体が目的になっていた。

 

それは全ての真実を知った時、羽場への愛よりも、それに伴う公安警察への復讐心よりも、最初から最後まで用意周到に事を進めてきた公安警察の掌の上で自分が弄ばれていたような屈辱感、そしてそうやって弄ばれた自分自身に対する怒りが勝ってしまったからだろう。

 

「私の人生全てをあんた達が操っていたなんて思わないで!」

せめて心だけは公安警察に負けぬよう振舞う、彼女なりの精一杯の強がりだった。

 

羽場もそれを理解したからこそ、日下部には「私達は今でも一心同体です。」と言えたが、橘には何も言えなかったのだと思われる。

つまりは日下部の方が橘よりも羽場への愛が深く重かった。それが同じ公安警察への復讐でも、日下部が大規模なテロ事件を起こしたの対し、橘は直接何かを仕掛けることもなく、あくまでテロ事件の事後処理の中で裏をかこうとする程度に留まった理由ではないだろうか。

 

一人の人間に対する各々の愛が迷走し暴走した、そんな映画だったように思う。

 

(追記)

それにしても公安検事と弁護士(兼公安警察協力者)という二人のエリートの人生をこうも狂わせるとは、羽場という男は実に人誑しだ。本音を言えば博多大吉氏ではなく、もっと演技ができる人を起用して欲しかったところである。